甘口辛口

謎のスパイM(5)

2015/3/22(日) 午後 1:57
 謎のスパイM(5)
 戦後10年間、日本共産党で一番目につく政治家は伊藤律だった。共産党の重鎮といえば、徳田球一と野坂参三が双璧だったが、党を自在に切り回している有能な党員という印象からすると、まだ30代の伊藤律が際立っていたのである。
 それはオウム真理教の終末期に、信者の中で最も目立っていたのがスポークスマンの上?史裕だったのに似ている。伊藤律も共産党のスポークスマンだったし、実際に彼が記者たちを相手に党の政策を語っているところを見ると、党員のなかで彼は類を見ないほど明敏な政治家に見えたのだった。そんなことから、彼は徳田球一のあとを嗣いで、日本共産党の次の指導者になるものと一般に信じられるようになっていた。
 その彼がゾルゲ事件の密告者であり、政府のスパイだったとして共産党から除名されたのだから、全ての日本人がびっくり仰天したのである。その後、北京で幽閉されることになった彼の消息は、一般には知られなくなった。にもかかわらず、ことあるごとに伊藤律はどうしているかと話題になり、そんな中で朝日新聞による「伊藤律会見記」という偽造記事も飛び出して来たのであった。
 そして、ようやくその存在が忘れられかけた頃、伊藤律は耳は聞こえず、目もほとんど見えないという廃人同様の姿で北京から帰国した。そのため、また、日本人は驚かされたから、その後、彼の回想録(「伊藤律回想録」)が出版されたとき、その帯広告には、次のような文字が躍っていたのだ。
 
 「昭和史上最大の謎の人物が残した赤裸々な遺書
 27年間の中国幽閉の壮絶な記録を全文公開!」
 愚老は63年(平成5年)に出版されたこの本を最近手に入れて読了し、共産党幹部が織りなす人間関係の綾についていささか教えられるところがあった。そして、党の内情について長年疑問としていたことが、一部、理解できるようになったのだ。そこで、ここにその一部を紹介することにする。
 この本の叙述は、朝鮮戦争後に公職追放になった共産党幹部らが日本を密出国して中国に渡り、北京で共同生活を始めたところから始まる(「北京機関」と呼ばれた)。中国政府は、北京機関に集結したメンバーの中で、徳田球一と野坂参三を同等のリーダーとして扱っていたが、日本人内部では何と言っても徳田球一がボスだった。徳田は、相手が野坂であろうと誰であろうと、気に入らないことがあれば頭から叱りつけていた。
 そんな徳田が特に目の敵にして叱り飛ばしていたのが女婿の西沢隆二だった。西沢隆二はペンネームを「ぬやま・ひろし」といい、若い党員の間ではアイドルのように愛されていた詩人だった。コ田の娘はこの人気者に惹かれて、父に西沢との結婚をせがんだと噂されていた。伊藤律は、書いている。
 < 徳田は西沢に対しては、一同の前で毎日のように叱責し批判した。時には
 西沢が中山服のホックやボタンをかけず、だらしないとまで叱った。これは
 私にとってもおどろきであった。西沢は徳田の女婿で、戦後ずっと徳田家に
 同居していた。それもあって徳田とは最も親密な関係にあり、宮本顕治・蔵
 原惟人集団は、政治局の決定まで西沢が家でひっくり返すと非難していた>
 そんな二人の関係が壊れ、鋭い亀裂を生じた原因を伊藤律は、北京到着後、すぐに徳田から聞かされていたのだった。
 「おれは長年獄中にいて世間にうといから、西沢に助言させてきた。しかし、それはブルジョア思想でおれを毒する危険な協力だった。彼のため、もう一歩で一生を誤るところだった。彼と野坂君とは同じ思想だ」
 問題の本質は、党内に一貫して存在した二種の思想、二条路線の対立にあった。徳田書記長は武闘派であり、反対派から見れば極左だったが、野坂参三は議会主義であり、平和革命論者で、徳田側から見ればプチブル的であり、自由主義路線だった。これまで義父と共に武闘派と見られ、徳田の「参謀役」と見られてきた西沢が、野坂の側に移ったことで、完全に徳田から見放され、義理の親子関係を解かれ、日夜、以前の義父から罵倒されることになったのである。
 徳田と野坂の対立関係が激化したことで、北京機関内の勢力関係も変化し、西沢追放後のコ田派内では伊藤律の存在が大きくなった。伊藤は西沢に変わってコ田球一の代理人として行動するようになった。北京機関は次の二派が睨み合う形勢になったのだ。
 
 コ田球一=伊藤律グループ
 野坂参三=西沢隆二グループ
 劣勢の野坂派は、日本国内の共産党を抑えている宮本顕治グループとの関係を強化してコ田派に対抗するしかなかった。野坂からすれば、宮本は自分を非難しているコミンフォルム支持の国際派なのだから宮本顕治一派は自派にとっての敵の筈だったが、武闘派の強硬路線に反対するという点では野坂と宮本は共通していたのである。
 加えて、野坂と宮本は、中国の毛沢東からの圧力に苦しんでいる点でも共通していた。中国共産党の内部にも、毛沢東派と毛沢東批判派の対立があり、最初、コ田と野坂を対等に遇していた毛沢東も、武闘に反対する野坂の路線を知って、「野坂同志は、延安で何年も粟飯を食べながら、いったい何を学んで帰ったのか」とコ田に語るようになっていた。毛沢東は同様に、宮本顕治の中共批判にも怒りを昂ぶらせていたのであった。
 (つづく))