甘口辛口

死ぬ前にしたいこと(3)

2012/11/3(土) 午後 1:50

昔、安楽死や自殺について書いたブログがあったような気がしたので探してみたら、「生きることは、権利か義務か?」という題で書いたものが見つかった。これも、外国映画を見たことが切っ掛けになって書いたもので、世間が狭くなった老人にとっては、知的刺激を受ける機会は、暇つぶしに本を読むか、テレビで映画を見るかしたときくらいしか、残っていないのである。

「海を飛ぶ夢」という映画は、首の骨を折って身動きできなくなったラモンという中年男を主人公にしている。

彼は19歳の時に、世界放浪の旅に出るために家を飛び出して船員になったが、25歳になったときに、崖の上から海に飛び込んだために首の骨を折ってしまったのだった。引き潮だった為に水深が足らなくなっていることに気づかなかったのである(これは実話を映画化したもので、原作の本は、日本でも翻訳されて出版されているという)。

ラモンは、28年間寝たきりの状態にあって、自殺を考えていた。けれども、首から上しか動かない障害者だから、自死するには他人の手を借りなければならない。が、そうすれば手伝ってくれた相手は、自殺幇助の罪で罰せられることになる。だから、彼が自殺するためには、まず法廷に訴えて、尊厳死する権利を公的に認めさせなければならなかった。

首の骨を折ってからのラモンは、実家に引き取られ、父・兄夫婦・甥から手厚い看護を受けている。ほかにも、ラモンの弁護を無償で引き受けた女性弁護士やボランティアの女性が、親身になって彼の面倒を見ていたから、同じような境遇にある他の障害者に比べたら、彼は遥かに恵まれた立場にあった。そんな人々の中で、ただ一人、兄だけは裁判に負けたラモンを、「よくも家の恥を天下にさらしてくれたな」と面罵するが、それも裁判で自殺する権利を獲得しようとした弟を引き止めるための苦肉の策だった。兄は安楽死によって弟を失うことを何よりも怖れていたのである。

ラモンは上訴して裁判を続けるが、勝訴の見通しは立たなかった。とすれば、やはり信頼できる他者の援助を得て死ぬしかない。だが、そのために手を貸してくれるような者は、見あたらなかった。彼を愛している家族や友人たちは、彼が生き続けることを強く望んでいたからだ。

そんなときに、ラモンの作品を出版するために努力していた女性弁護士が、一緒に死んでもいいと約束してくれたのだった。彼女は、脳血管性痴呆症という難病を抱えており、発作が続けば、最終的に植物人間になる危険に脅かされていた。弁護士は、ラモンの作品集が刷り上がったら、それを持って戻ってきて、ラモンを死なせ、その後で自分も後を追って自死すると誓ったのである。

だが、ラモンの手許に、刷り上がった本が届いたけれども、弁護士は戻ってこなかった。映画は、その理由を明らかにしないままで、尊厳死実現運動を行っている協会の援助を得たラモンが自死する場面を描いている。

死ぬ前に、ラモンは協会が用意したカメラに向かって静かに、「生きることは、権利だろうか、それとも義務だろうか」と反問している。

こう反問してから彼は、自らの過去と現在を否定し、義務としての生を終わりにすると告げ、ストローを使って、協会が用意してくれた青酸カリ入りのコップの水を飲み干すのだ。

しかし、彼がいまわの際に自身の過去を否定したのは、なぜだろうか。そうすることは、彼のために献身的な介護をしてきた肉親や知友の努力を否定することになるのではなかろうか。そして、弁護士がラモンとの約束を破ったのは何故だろうか。映画を見終わってから、疑問が次々に浮かんでくるのである。

インターネットで調べてみたら、弁護士が再びラモンのもとに戻らなかった理由について二通りの説明がなされていた。ひとつは、夫に説得されて彼女が死ぬことを思い止まったというものであり、もう一つは彼女が認知症を発症した為というものだった。

彼が自らの生を否定した理由については、その著書を読んで判断するしかないけれども、映画を見た限りでは、ラモンの性格と思想が深く関係しているように思われる。ラモンは、19歳で世界を放浪するために故郷を捨てている。彼は、無神論者であり、現世を冷眼に見ているドライな行動主義者だったのである。

「海を飛ぶ夢」を見ていているうちに、私は文藝春秋で読んだばかりの和田勉の話を思い出している。

和田勉はNHKで二百数十本のテレビドラマを作った名物ディレクターだった。彼は仕事柄、徹夜の続く過酷な仕事を何十年と続け、その間に酒は飲むし、タバコを日に60本も吸っていた。そうした生活の帰結として、彼はガンになり、余命二年六ヶ月の宣告を受けることになる。ガンの専門医は、放射線療法にするか、化学療法にするか、和田の希望を尋ねた。和田の年齢が78歳になっていて外科手術に耐えられそうもなかったからだ。

ところが和田は、付き添ってきた息子に、いきなり声をかけた。

「こんなところにいても、時間の無駄だよ。うどんでも食べに行くか」

彼は医師の問いに答えないばかりか、医師からの説明に耳を貸すことなく、その場を立ち去ってしまうのである。和田はケアハウスに入ってからも、ガンの治療を一切拒否している。妻のワダミエは読書が好きな夫のためにいろいろな本を差し入れていたが、和田は、

「宗教本は、ダメだよ」

といってその種の本の受け取りを拒否した。そんな調子だったから、食道ガンは進行する一方で、内視鏡が食道に入らないようになった。医師は、「もうじき、水ものどを通らなくなります」と予告した。

ワダミエは、夫が遺してくれた教訓について、こう書いている。

<「余命二年六カ月」と告げられた後、寿命に逆らって無理に延命するのではなく、自分の好きなことを思う存分やってあの世へ逝った。最後の二年半以上、「治療」よりも「自分らしい人生」を選んだその生き方、そして死に方こそ、私にとって貴重なメッセージでした>。

ワダは、夫が生前に、「僕は人望がないから、葬式は家族だけでひっそりやってくれ」と言い残していたことも書き加えている。ガンだと分かってからの和田の生き方には、ラモンに似たところがあるのだ。ラモンは世界を放浪していた頃の生き方を自分本来のものと考え、その生き方が不可能になったら、もう生きている意味はないと感じて自死を選択した。和田も仕事中心の奔放な生き方を自己本来のものと考え、それを抑制しなければならないような療養生活を断固として拒否している。

自分に忠実な男たちは、常人には理解できない、こういう生き方をするものなのである。

(つづく)