甘口辛口

回心から棄教へ(2)

2012/10/23(火) 午後 4:42
回心から棄教へ(2)

トルストイは、二年間続いた「暗黒時代」から何とか立ち直った。そのあとで、彼はこう語っている。

「だんだん気のつかないうちに、生命のエネルギーが戻ってきた。そして奇妙なことに、戻ってきたこのエネルギーはなんら新しいものではなかった。それは私がむかし、子供の頃にもっていた信仰力であり、私の生活の唯一の目的は、もっと善くなることだという信仰であった」

トルストイは、これ以後、個人的野心を追求する生活を放棄し、単純な農夫としての生活を始めた。すると、自分は正しく、そして幸福であると感じられるようになった。

シモーヌ・ポーポアールは、少女期に神を失った時の感覚を「世界が急に空き家になったようで、その空虚感の恐しさは声をあげて走り廻りたいほどだった」と書いている。

しかし、私は棄教したことによって、自分が蘇生したように感じたのである。私はこれを以前に体験した「宗教的経験」に匹敵する内面的な事件だと思った。逆回心直後の数日間を、私は日に日にクリアになって行く世界を前にして、よろこびに身を慄わせていた。この世界には謎も不思議もない。世界は見た通りのもの、これだけのものなのだ。

奇蹟や神秘を残りなく振り落した世界は、明晰に澄みわたって一点のくもりも残していなかった。この無神論的世界のスッパリ割り切れた明快さ。切り口の鮮やかさ。

世界の蔽いが取れると同時に、私がこの世界に寄せていた希望や期待も一挙に剥がれ落ちた。私達は意識しないで、この世界に様々の期待を寄せている。私達はありのままの世界ではなく、その上にほどこした自己の夢や計画などの着彩を眺めているのだ。私達は自分の思い描く未来との関連で現在を評価し、自分が実現しょうとする未来に対して、現在がいかなる役割を果すかという役割効果の面からのみ「今の状況」を評価している。

さらに私達は、人類がこの世界の上にほどこした様々の解釈にとらわれていた。猿と人間の関係をダーウィンの目で比較し、世界経済の動向をケインズやハイエクの目で解釈する。だが、私の意識から神が消失すると同時にシーツを剥ぐようにこれらの解釈や付加物・虚飾が剥ぎ取られた。そして、その下からあるがままの無飾の世界があらわれた。太初の昔から一続きで現在に至っているこのリアルな世界。

40代半ばで神信仰を捨てた私の前には、選択肢が三つあった。どうやら私は、この中から一つの立場を選んで、生きて行かねばならないらしかった。

第一は、自分の抱く欲動を、四苦八苦の原因であるとして放棄することを求める仏教

第二は、自分の抱く欲動を、オリジナル・シン(原罪)の原因であるとして放棄することを求める原始キリスト教

第三は、自分の抱く欲動を、自滅をもたらす原因であるとして、原点に復帰することを求める老荘の道

欲動の動かしがたい強さを知っている私には、第一、第二の生き方を選ぶことは、極めて困難だった。

そこに行くと、老子や荘子は、欲動を棄てることを求めてはいない。欲動は本来、生命維持に不可欠な欲求から成り立っているが、人間はこの欲求をやたらにふくらませて、自分の手に余るところまで望むようになるから破滅する。だから、老荘は欲動を本来のレベルまでシフトダウンして生きることを求めているだけだった。

老子が望むように、欲望を本来あるべき健全なレベルまで落とすことは、さほど難事とは思われなかった。「常(日常性)」を守って生きているだけで、事足りるからだった。民俗学の用語を借用すれば、ハレとケのうち、ケに留まって生きていればいいのである。

覇気がないとか、対人恐怖症だとか、場合によれば、孤高を気取る狷介な変人といわれて来た私には、老子の勧告に従って生きることは無理難題どころか、むしろ楽しいことだった。だが、個人としてはそれでよかったが、社会人としてはどうしても承服できないことがあるのだ。

例えば、天皇制だった。

天皇は日本が行った侵略戦争には、直接の責任はなかったかも知れない。が、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本人だけでも数百万人が「天皇陛下のおんために」と呟きつつ死んでいったのだから、天皇はひとりの人間として、そのことについて国民に懺悔するか、詫びるかすべきだったのだ。

国民の側の反応もおかしかった。戦後、天皇の巡幸を迎えた東北地方のある県では、天皇の宿泊先になった旅館に厳しい要求を出している。旅館の従業員から、赤痢などの伝染病が天皇にうつることを恐れ、検便を厳重にすることを求めたのだが、その際、従業員全員の肛門に器具を差し込んで便を取って調べるようなことまでさせている。

加藤周一は、老人が過去の日本について語り継いで行くことをもとめ、その際、繰り返し「本当のところを」とか、「事実をありのままに」と注釈をつけている。彼は、老人が天皇制について口をつぐんで語ろうとしないことを心配していたのである。以前に天皇の存在が軍部や右派ジャーナリズムによって、いかに悪用されて来たかを老人が語らなければ、神格化された天皇制が何時までも続くことになるからだった。

加藤周一ならずとも、天皇制が温存されていることや、格差社会が深刻になってきていることを気にしている老人は少なくない。

私の感覚では、会社の創業者や会社役員が一般社員より高収入を得ているのはいいとしても、それは社員平均の5倍くらいまでが限度ではないかと考えている。理由は、会社はひとりの力で運営されているのではなく、社員全体の協力によって動いているからだ。ところが、日産のゴーン社長の給与は、社員平均の50倍だというから唖然とする。

こういう現象は「経済合理主義」のもたらしたものだから、政府はこれを押さえ込んで、しかるべくセーブしなければならない。だからこそ、リベラルな政府が求められるのだ。けれども、私の生きている間に、リベラルな政府が出現する見込みはほとんどないのである。

現世に満足できなかった加藤周一は、最後にペーパーに次のように書き残している。

    ──「死」による完全な平等

加藤は言っているのである、「現世では今後何十年、いや何百年の間、人間平等という社会が実現することはないかも知れない、しかし、大所高所から見れば、完全な平等はすでに実現しているのだ、すべての人間が死ぬという事実によって」と。

社会制度によって、不当に守られている幸福な種族は、制度が変わることを恐れ、死ぬことを恐れている。彼らが、社会変革や死を恐れることは、平凡な市民が想像する以上なのだ。こうしたことを勘定に入れると、「死による平等」という言葉は、一層、重みを増してくるのである。