甘口辛口

「黒い部屋の夫」というブログ(その2)

2009/11/5(木) 午後 6:50

  (森の中の裸婦像)

<「黒い部屋の夫」というブログ(その2)>


夫のうつ病は、休職を延長して自宅で休養しているうちに段々快方に向かい始めた。最初の頃は外出しないで自室にこもっていることが多かったが、今では毎日外出するようになったのだ。行く先は自動車の解体屋であった。

クルマ道楽の夫は、独身時代に手に入れた二人乗りのスポーツカーを大事にしていた。このクルマの車検が迫っていたので、自分の手でエンジンを分解し部品を取り替えてクルマを生まれ返えらせようと解体屋に通っていたのだが、車検をパスしてからも解体屋に通って他人のクルマの分解を手伝うようなこともしていた。

好きなことには止めどもなくのめり込んで行く夫は、インターネットを通してやたらにクルマの部品を注文し始めた。夫の部屋は送られてくる段ボール箱と機械部品で溢れんばかりになった。夫は僅かに残った空間に万年床を敷き、油と土で汚れた衣類や請求書・塵紙の散乱するゴミ箱のような部屋で寝起きしていた。だから、体は汚れる一方だったが、彼は面倒くさがって入浴しない。エリがほとんど力ずくで夫を入浴させると、浴槽の湯は垢やら何やらで赤潮のような色に染まった。

出産後にエリは胆石手術のために入院している(その間、姑が赤ん坊と夫の面倒を見てくれた)。彼女は退院して自宅に戻って来たけれども、夫は病後の妻と赤子を放置し、稼ぎもせず、毎日クルマをいじりに出かけて帰ってこなかった。彼は一人だけで楽しんでいた。

夫がそんなことをしている間に、傷病手当の受給期間一年六ヶ月は過ぎ、彼は出社しなければならなくなった。その頃、会社は不況で早期退職希望者を募っていた。夫は悩み抜いた末に、10年間勤めていた会社を辞めてしまう。

晴れて無職になった夫は、割り増しの退職金と失業保険金の給付を受けてご機嫌だった。彼をさらに幸福にしたのは、これまで通っていた解体屋よりも、もっと素敵な居場所が見つけたからだった。夫は、二人乗りスポーツカーに詳しい整備工場主と親しくなり、その工場に日参するようになったのだ。

<工場主の人柄も良く、車好きの人達が日を問わず集まり、
 雑談を交わしながらメンテの様子を見学したり、たまに
  は指導してもらいつつ自分で手を加えたりしていた。

 大手のカー専門店でも敬遠される愛車を難なく見てくれ
 る上に、店主は親切で病気に対する色目も無く、欲しい
 欲しいと願っていた車友達にも出会えた……。夫は勢い
 に乗って車のオーナーズクラブを立ち上げ、その代表者
 を務めるという張り切りようだった。>
               (「黒い部屋の夫」)

夫は、オーナーズ・クラブを運営するためにホームページを作り、ドメインを取得し、揃いのステッカーを作るためにカッティングシートカッターを購入した。すべて、夫の自弁だった。

スポーツカーの好きな夫は、スピード狂でもあった。そのために数ヶ月の間に三度もの事故を起こしている。スポーツカーは二人乗りなので、一家三人で外出するときにはエリ名義の軽自動車で外出するのだが、これを運転するときの夫のやり方は乱暴を極めていた。このクルマに姉も乗せてドライブしたときの様子を、エリはこう書いている。

<・・・大人三人とチャイルドシート付き幼児でいっぱ
いいっぱいの軽自動車を、夫は床までアクセルを踏み込
んで走らせた。背が高く(イコール重心が高く)、横揺
れに対するバランスが悪いこの車は、急な車線変更の度
にふわりと横転しそうな感触が襲う。エンジンの悲痛な
唸り声が、私の恐怖を煽る。

高速道路に乗ると、夫の調子はさらにアップする。
悠々と走る普通乗用車達を必死のエンジン回転で次々抜
き去り、ふわりと元の車線に戻る。アクセルを床まで踏
み込み、また次の追い越しをかける。
怖くて怖くてたまらなくて、私は言った。
「ねぇ。やめてよ、怖いから。追い越ししないで。それ
以上スピード出さないで!」
夫はチラリと私を一瞥し、無言で運転に戻る。前の車を
追い越すために、アクセルに力を入れる。
「やめてったら!!!」>

夫が退職したのは春だった。夫が何時までも次の仕事を探そうとしないので、エリは自分が働くことにして、翌年から職安に通うようになる。書類審査や面接でことごとく落とされた末に、彼女がようやく手に入れたのは生命保険の勧誘員という仕事だった。

2才の幼児を抱えた母親が働きに出るということになれば、子供をどこかに預けなければならない。本当は、夫が家にいるのだから彼が子供の面倒を見てくれればいいのだが、夫は昼近くまで寝ていて起きれば整備工場に出かけ、夕方にならないと帰ってこない。そこでエリは、少人数の無認可保育所に子供を預けることにした。

妻の就職に刺激されたのか、夫もようやく働く気になった。夫が就職した弱小IT系企業は自前で仕事をするのではなく、IT技術者を派遣要員として雇い入れ、大企業の注文に応じて相手方に出向させることを業務にしていた。

夫は、当初、派遣先で張り切って仕事をしていたらしかった。が、長くは続かなかった。プログラミングに優れた才能を持っている夫は、会社が予定した時間よりも早く仕事を済ませてしまうので、次の仕事が与えられるまで現場で待っていなければならなかった。この仕事待ちの時間が苦痛でならないといって、夫は出勤を渋るようになったのである。

再就職して一ヶ月後、エリの携帯に夫からのSOSコールが鳴った。エリが慌てて夫の仕事先に駆けつけると、待ちかねていた夫が後部座席にどさっと乗り込んできた。見れば、顔や手に赤く蕁麻疹(ジンマシン)が吹き出ている。夫の息も荒く、熱もありそうだった。エリは夫を病院に連れて行って応急手当を受けさせたが、これ以後も彼女は何度となく夫に呼び出されて彼を病院に連れて行く羽目になるのだ。

こんな調子で一年が過ぎ、エリがある朝、子供を抱えて家を出ようとすると、寝ていた夫が背後から声をかけた。

「エリちゃん、まって。行かないで」

エリには、グズグズしている時間がなかった。夫に代わって会社に電話をかけ、欠勤する旨を告げてから子供を保育所に預け、保険会社に出社しなければならない。エリが会社で、ほっとしていると、夫からメールが届いた。

「今朝、俺があんなに苦しんでたのに、何で出社できるの? エリちゃんは俺より仕事が大事なの? 俺がどうなっても構わないの?」

エリが仕事を終えて帰宅すると、夫が彼女を呼びつけた。

「エリちゃん、話がある」

話というのが何かと言えば、エリに仕事を辞めてほしいというのだった。夫はこう言って訴えるのである。

 「俺は今朝、すごく悲しかった。あんなに苦しかったの
  に置いて行かれて、凄く死にたくなった。エリちゃん、
 今の俺にはサポートが必要なんだよ。エリちゃんがエリ
 ちゃんのやり方で頑張ってくれているのはわかるけど、
 このままでは俺は潰れてしまう。どうか今は、家族を一
 番の優先で考えてくれないか」(「黒い部屋の夫」)

夫の訴えを聞きながら、エリは考える。
 
(家族を一番で考えろって? 私が家族の未来をにらんで頑張っているのに? 俺だけを一番で考えろ、の間違いじゃな いの?)

(私の一生は、このままで終わるのだろうか。働かず、家のことも子供のこともしないで、一日中、食って寝て好きなことだけをして、責任と義務は全部人に押しつけておいて文句ばかりいう人と一生を共にしなければならないの?)

その日の話は、そのままで終わったけれども、エリは程なく保険勧誘員を辞めることになる。夫も勤め先の都合でエリと前後して会社を辞めたから、夫婦は再び自宅で顔をつきあわせて暮らすことになったのだ。

夫と離婚したいというエリの気持は日に日に強くなった。あたかもそれを見透かしたように夫が新たな提案を持ち出してきたのである。

──夫の父親は、息子夫婦がそろって失職して家にこもっていることを知り、そちらを引き払って、郷里に戻って来たらどうかと勧めている、この際父の勧めに従って一家三人で父の元に帰ったらどうだろうか、父はエリが親と同居することをイヤがるかもしれないと思って、一家のためにマンションを購入したといっているのだが・・・・

(つづく)