甘口辛口

松本清張の父(その2)

2007/10/6(土) 午後 10:33

(広津和郎)

実際、清張の父は、一人息子の清張を舐めるように可愛がっていた。
松本清張の頭には、父の腕のなかに抱き寄せられ故郷の話をしてもらった幼い頃の記憶が焼き付いていた。父は何度となくふるさとの思い出話を聞かせた後で、「今にのう、金を儲けたら、お前を田舎に連れて行ってやるぞい」と繰り返すのが常だった。

父は家出をしたときにも、息子の通っている小学校の校門前にあらわれ、清張が下校するのを待っていた。そして、清張を自分の泊まっている木賃宿に連れて行って、5銭を手渡し、これで好きな物を買って食べろと言ってくれた。

こういう盲愛に近い父の態度は息子が青年期に入ってからも続き、父は清張が徴兵検査を受けるときにも一緒について行った。その頃、親が息子の徴兵検査に付き添って行くなどという話はたえてなかったのだ。三島由紀夫は父親に付き添われて徴兵検査に出かけているが、これは三島家独特の特殊事情から来た行動であって、父子同伴で徴兵検査に出かけるということは希有に近い事例だったのである。清張の父は、徴兵検査に付き添って行ったばかりではなかった。

<前に久留米で三カ月ほど教育召集を受けたときも、日曜
ごとに父は面会に来ていた。一時、除隊になって小倉に帰
るときも、父は私の身柄をしっかりと受取るように迎えに
きた。列車の中では同じ中隊にいた者が五、六人乗ってい
たが、彼らには家族の出迎人はなかった。その連中は牢獄
生活から解放された囚人のように車内で騒ぎ、車掌がくる
たびにわざと軍隊用語を使ってふざけた。年老いた父の傍
にじっとしている私には彼らの単独がどれだけ羨しかった              か分らない。父の過剰な愛情を呪わしく思った記憶は多い。>
              (「半生の記」)
   
一人息子ということで、幼い頃から必要以上に両親から拘束されてきた松本清張は、個人の意志で勝手に行動できる仲間達をどれくらい羨ましく思ったかしれなかった。親の過剰な愛に押しつぶされる苦しさは、その立場に置かれた人間でなければ分からないだろうと彼は語っている。

それだけでなく、松本清張は、「私は一人息子として生まれ、この両親に自分の生涯の大半を束縛された」とまでいっているのだ。彼は自らの過去を要約して、「少年時代には親の溺愛から、16才頃からは家計の補助に、30才近くからは家庭と両親の世話で身動きできなかった。──私に面白い青春があるわけはなかった。濁った暗い半生であった」と述べている。

ここで松本清張と父の関係を広津和郎の父子関係と比較してみたい。

広津の父広津柳浪は、「深刻小説」で名をはせた作家だけに、重い憂鬱に閉ざされた人生を送っていた。広津はそういう父の影響下にあった家のことを、「父の憂鬱な気分のみなぎっている家」と表現している。その父が、家族に「過剰な愛情」を注いでいたのである。

<父が襲われていた厭世憎人の気持が強くなれば強くなる程、
それに反比例して、肉親に対する彼の愛情が益々深くなって
行った事を、私は子供心にも感じていた。父の愛情は、全く
私達には喜びよりも寧ろ一個の苦しい圧迫であった。私は始
終自分に父の影が附纏っているような気持のするのを、振り
払う事が出来なかった(広津和郎「本村町の家」)。>

家族への愛情は、とりわけ広津和郎に向けられ、広津が外出して帰りが遅くなると、父はじっとしていられないほどその帰りを待ち遠しがった。電車の事故で重傷を負っているのではないかと、居ても立ってもいられなくなるのだ。そのことを何度も母に聞かされるので、彼は父に、「あまり自分のことを心配してくれるなと」訴えたことがあった。すると父は反駁した。

「お前が気にすると思うから、俺はなるたけお前の耳に入らないようにしているんだよ。これで俺も随分我慢しているんだ」

「僕も、もう24です。子供じゃないんです」

こうした問答を綴った後で、広津は次のように書くのである。

< 私はそう云ってしまって、そして「ああ、云い過ぎた」と
 思い返すのであった。がもう遅かった。私の眼には涙が溢れ
 て来た。私は愛が如何に苦しいものであるかを考えた。そし
 てその息苦しさを持てあました。>
 
広津は、補充兵として三ヶ月、世田谷の砲兵連隊に入営していたとき、気管支炎のため陸軍病院に入院したことがある。この時には、父が毎週必ず見舞いに来た。軍隊にいる息子の所へ毎週定期的に面会にやってくるところは、松本清張の父も広津和郎の父も同じだったのだ。しかし違うところは、二人がこういう父の愛情をどう受け止めたかという点にかかっている。

先ず特記しておかなければならないのは、清張も広津も、自己の将来を選ぶに当たって父の影響を強く受けていることである。清張の父親は、どんなに貧乏しているときでも、新聞を購読し、特に政治欄を好んで読んでいた。そして、仲間に新聞で読んだ事柄を面白おかしく話して聞かせた。彼は、まわりの人間に、「物知りだ」とか、「頭がいい」とか言われるのが何より嬉しかった。だから、暇さへあれば知り合いの家に出かけていって、新知識を披露して飽きなかったのである。

また、彼は不思議なほど歴史に詳しかった。清張は、「それらの知識は講談本などから仕入れたのだろう」と言っているが、同時に父の話は現在の目から見ても筋が通っていて、おかしなところはなかったとも証言している。

松本清張は父親が仲間を楽しませるために飽かずにおしゃべりをしたように、読者を喜ばせるためにおびただしい物語を作りつづけ、戦後の日本を代表する流行作家になった。

清張は父を突き放して客観化して眺めていた。父親は頑丈な体格を持ちながら労働を嫌い、怪しげな職業を転々として一生をすごした。清張は父の生き方を憎んだり侮蔑したりしたわけではない。彼は父を行き当たりばったりに生きる庶民の一人としてとらえることで、感情に流されずに父を見る視座を獲得したのだった。

が、広津は松本清張とはちがって、父と一体化しその一体化した感触を把持したまま、父の客観像を描こうとしている。広津の自伝小説には、次のような一節がある。

<けれども、父と私との心には、昔から一種の不思議な神経
が働いていた。父の心に宿る暗い影、憂鬱、悲しみなどは、
直ぐ私の心に響き始めるのであった。私は父の顔を一目見る
と、直ぐ父の心がどんな方向へ進みつつあるかと云う事が解
った。そしてそれがため私自身が憂鬱になったり、悲しんだ
り、心が暗くなったりした。それがまた直ぐに再び父の心に
影響を与え始めるのであった。(「本村町の家」)>

父と相呼応する感情を抱いて生きていた広津は、あたかも父の跡を追うようにして自然主義の作家になった。彼は終生、父を意識しながら作家活動を続けたと思われる。